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2010年1月15日 (金)

執着を越えられるか

ヨガのティーチャーズトレーニングの1年目が終わり、お祝いランチの席にて。

「今年1年学んだことを一人ずつ一言」と先生に言われ、すぐに口をついて出たのが、

「自分がどんなにたくさんのことに執着(Attachment)しているか。

物 (特に食べ物)、人、認められること、失ったもの etc.

そして私の苦しみの多くは執着から来ていることを実感した。」

ということでした。

これは、ランチの席に向かう電車の中でしみじみ思いました。

先生の教えやヨガの練習を通じて自分の人生を振り返り、

あのときもああだった。そしてこのときもと思い当たることばかり。

つい先日は、そのヨガにも執着していたことを発見して愕然としました。

特に失ったものへの執着は長く、ひどく、私を苦しめてきました。

五感を持って生きている以上、悲しむときは悲しむことも必要だけど、

あまりにも長くそれを引きずるのはその対象に執着していることにほかならないのかもしれません。

執着があることに気づくのが第一段階。

あとはじわりじわりと執着から後ずさりしていき、ついには執着を越え (Dettachment)、

そして最終的には、AttachmentもDettachmentも両方を超越するときが来る?

ヨガの古典であるパタンジャリのヨガスートラに vairagyam (Non-Atachment) についての説明があります。

通常の vairagyam は、今まで執着していたものに惹かれはするけど、マインドにNo!と言ってコントロールできる段階。

その段階ではサムスカーラ(習癖のようなもの)にその対象への記憶が残っています。

その記憶はある段階に来ると消失します。

それは、大いなる自己(アートマ、Self) であることの真の平和と至福を味わったときだそうです。

なぜなら、絶対的な至福を経験すると、それまで執着していた一時的な楽しみは霞んでしまい見えなくなってしまうから・・・

本当にそんなときが来るのか、今年は更に一歩前へ!

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コメント

アメリカ人で学士を二つ持ち、インドで得度、ネパールでも修行、日本の宗教にも造詣が深く、しかしどの宗教にも属さず、アメリカと日本の有名大学で教鞭をとって、今はremote viewingなどを指導している友人がいました。彼は40代で結婚し、子供が生まれました。彼が私に言いました。「自分はもう執着はないと思っていた。物、お金、人、名声、自分の命さえ必要ではなかった。だが、子供が生まれたら執着している自分がいる。子供だけは無理かもしれない・・・」
私にとっても、息子たちへの執着をとるのが一番の修行でした。かなりとれたと思うけど、すっかり、ということはできません。それが人間らしいことなのかも、と自分を許してる自分がいます。。。
blissfulな光の経験ができる自分に至れるように、それが今年の祈りです^^

投稿: Si-ma | 2010年1月16日 (土) 09時40分

Si-maさん、興味深いお話をシェアしてくださり、ありがとうございます。
Si-maさんと息子さんのお話をミクシィで垣間見させてもらって素敵な親子だなぁと思っていましたが、そんな背景があったのですね。
昨年末お会いしたスワミが、Life is Bliss とおっしゃっていましたが、これはその正反対のもの(究極的にはこの世に苦しみはないけど、自ら作り出した苦しみ)を経た後に気づくものなんでしょうね。
Peace of Mindを何よりも優先したいと思う今日この頃です。

投稿: Fiona | 2010年1月16日 (土) 18時18分

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